世界の宗教の多くが「この世の終わり」を説いています。
いわゆる『終末論(しゅうまつろん)』です。
世界が終わり、人類が滅ぶ――
古今東西の宗教において、その思想が人々に説かれてきました。
はたして、世界人類は本当に終わりのときを迎えるのでしょうか?
そもそも、終末論はなぜ説かれたのでしょうか?
終末論――「この世の終わり」の考察
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教の宗教は、典型的な終末思想です。
唯一絶対の神が最後の審判をくだし、大災害のなかで人類が滅亡するとされています。
その後に神の王国の到来や復活があると説いていますが、人類は恐怖のうちに滅ぶことが予言されています。
東洋の宗教の場合は、輪廻転生(りんね・てんしょう)の思想が根底にあるため、終末論はあまり説かれません。
ですが、日本の仏教においても、終末論は説かれています。
平安時代から鎌倉時代にかけて、不安定な社会情勢と末法思想(仏教の教えがうしなわれるという思想)が合わさって、終末思想がひろまりました。
それ以外にも、世界じゅうの宗教で終末論――「この世の終わり」が説かれています。
ページ内目次
終末論が説かれた理由 宗教の役割として
進化生物学者のジャレド・ダイヤモンド博士は、NHK
Eテレで放送された特別授業のなかで、このように語っています。
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「私たち人間は、チンパンジーやその他の動物とくらべて大きな脳をもっています。大きな脳をもつと自然現象などについて理解したいと考えるようになります。
脳が大きいことで賢くなったのはいいんですが、これはつねに疑問をいだいているということでもあります――太陽が動くのはなぜなんだろう、とかね。
宗教は、そういう疑問に説明を与えてくれたのです。
ギリシャ神話では、太陽はチャリオット(二輪戦車)に引かれて動くと説明しました。
これが宗教の最初の役割のひとつです」
出典:『ダイヤモンド博士の“ヒトの知恵" 第4回「宗教は何のために?」』
NHK Eテレ(2019年9月26日放送)
※丸括弧のなかに補足説明を加えています。
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ダイヤモンド博士は、暮らしのなかのさまざまな疑問への説明が、宗教の最初の役割だと言っていますね。
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人々がいだく疑問に「この世の始まり」があります。
現代であれば、「ビッグバンという大爆発によって、この宇宙、この物質世界は始まった」ということを、誰もが知っています。
しかし、科学が発達していない時代には、そのようなことは知るよしもありません。
ですが、むかしの人々も「この世の始まり」については、疑問をいだいていました。
そして、そのような疑問に宗教は答えを与えました――神話的な壮大なストーリーによって。
ほとんどの宗教において、この世界の始まりや、人類の始まりについての「物語」があります。
それは宗教の役割として、未知なるものへの説明を与えるものでした。
そしてこれが、多くの宗教で終末論が説かれている理由になります。
というのも、「始まり」があるものには、かならず「終わり」があるからです。
この世界の「始まり」について説いたからには、「終わり」についても説かなくてはなりません。
「始まりの物語」と「終わりの物語」がセットでなければ、つじつまが合わないからです。
宗教と終末論が結びついているおおもとの理由は、そこにあると推測されます。
聖者が説く終末論は「技法」や「方便」
宗教の聖者が、みずから人々に「この世の終わり」について語ったというケースがあります。
これは、神話的な物語としての終末とは、意味合いが異なっていると思われます。
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宗教の聖人・賢者が伝えていることというのは、『技法』もしくは『方便』です。
※方便とは、「教えに導(みちび)くための仮の手段」のこと。
宗教の聖者が説いているのは、教義でも理論でも思想でもありません。
技法や方便――すなわち高次の精神状態になるための『方法』です。
それは、「瞑想(めいそう)」や「祈り」と同様の、精神を高めるための『方法』なんですね。
※こちらをご参考ください
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いにしえより使われてきた技法(方便)に、
「自分の死を意識させる」
というものがあります。
現代においても、宗教にとどまらず、自己啓発やセラピーの分野にまでこの技法は活用されています。
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ひすいこたろう:著
ディスカヴァー・トゥエンティワン(2012年)
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『死』を意識すると、宗教的な精神状態へ移行します。
生命とは「死ぬもの」であり、『死』を意識しないかぎり本当の『生』を知ることはできないからです。
そのため聖人・賢者たちは、『死』を意識するように人々を導いたのです。
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ここまで読めば、もうおわかりかと思いますが――
聖人・賢者が説く「この世の終わり」は、「あした死ぬかもしれない」という技法の、スケールの大きいヴァージョンです。
「あした死ぬかもしれない」、「いつ死んでもおかしくない」と想起する技法は、「自分ひとりの死」を意識するものでした。
「この世の終わり」では、自分だけではなく、みな死にます。
人だけでなく、世界そのものがなくなります。
そう考えると、どうでしょう――
すべての人、すべての物、この世界の何もかもが、かけがえのない大切なものに思えてきませんか?
ありとあらゆるものに、愛(いと)しさを感じませんか?
1分1秒が惜しい、『いま』という時間を大切にしなくては――という気持ちになりませんか?
そう、それこそが宗教的な精神状態です。
聖人・賢者たちは、私たちをそこへ導くために「この世の終わり」という技法(方便)をもちいたのです。
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また、ほとんどの宗教において「天国と地獄」という思想があります。
そのため『死』は審判のとき――天国へ行くか地獄へ行くかを決められるときを意味しています。
つまり、
「いますぐに、この世の終わりがやってくるかもしれない」
という教えは、
「いますぐ、『天国行き』か『地獄行き』かを判定されるかもしれない」
という意味でもあるんですね。
いまにも審判がくだる可能性がある、と言われたら、人々はどうするでしょう?
いますぐ行動をあらためて、審判の瞬間までに「天国に行く資格のある人」になろうとするのではないでしょうか。
20世紀インドの神秘家OSHO(オショー)は、このように語っています。
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イエスはこう言ったそうだ
「私の生きている間に、あなたがたの生きている間に、あなたがたは神の王国を見るだろう」。
この言葉は二十世紀間にわたって、キリスト教世界全体につきまとってきた。
――<中略>――
ところが、神の王国はいまだ到来していない。だとしたら彼の本意はなんだったのか。
また彼は言った
「世界はもうすぐ終わる、だから時間を無駄にするな! 時間は短い」
イエスは言った
「時間はごく短い。それを無駄にするのはおろかなことだ。もうすぐ世界は終わりを迎え、あなたは審判を受ける。だから悔い改めよ」
――<中略>――
このような方便によって、切迫性、緊急性を作り出し、それによって人々は行動を起こす。
出典:『内なる宇宙の発見――呼吸・夢の超越・やすらぎ―― タントラ秘宝の書 第一巻』
OSHO:講話
スワミ・アドヴァイト・パルヴァ:訳
和尚サクシン瞑想センター:編集
市民出版社(1993年)
(第六章 夢見を超える より引用)
※ネット上で読みやすいように改行を増やして体裁(文章の見た目)を変えています。
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心ならずも「この世の終わり」の技法を実践することがある
今年(2024年)の8月8日から8月15日までの1週間、南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)が発表されました。
南海トラフ地震の想定震源域で、大規模地震への注意を、政府が呼びかけたのです。
実際には、巨大地震は起きなかったのですが……。
この1週間のあいだに、
「みんな死ぬかもしれない」
「人も、街も、みんななくなってしまうかもしれない」
という思いに、多くの人がさいなまれました。
そして、本人の意志とは関係なく、「この世の終わりの技法を実践(じっせん)したのとおなじ精神状態」を体験した人が、数多くあらわれました。
すべての人、すべての物、この街、この社会の何もかもが、かけがえのない大切なものに思えてくる――
ありとあらゆるものに、愛しさを感じる――
1分1秒、『いま』という時間が大切に思える――
その心理状態が、宗教的な高次の精神状態です。
もっとも、災害に対する恐怖とセットなので、また体験したいとは思わないかもしれませんが……。
終末論のデメリット
終末論、すなわち「この世の終わりという技法」は、宗教的な精神状態に意識を高める効果があります。
ですが、デメリットが大きい技法でもあります。
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<デメリット1>
「この世の終わり」という技法(方便)は、人々に恐怖を与えることが前提になっています。
恐怖や不安というのは『心』に良くない影響をおよぼします。
数ある否定的な感情のなかでも、「おそれ」は特に心に対する負荷が強いからです。
そのため、「この世の終わり」という観念によって恐怖が高まりすぎると、高次の精神状態に移行せずに、苦悩だけが残ります。
そうなった場合は、技法や方便として逆効果だと言えます。
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<デメリット2>
「あした死ぬかもしれない」、「いつ死んでもおかしくない」という技法もそうなのですが、『死』を意識させると、快楽主義へ走る人があらわれます。
「いつ死んでもおかしくないのなら、いまのうちに楽しんでおこう」
と言って、快楽にふけることを正当化するのです。
酒、薬物、ギャンブル、セックス、豪遊――「どうせ死ぬんだから」と、堕落の道を選択します。
本来は、宗教的な高次の精神状態へと導くための技法です。
ですが、自制心がない人たちは、低次(快楽)に走る口実として利用します。
これでは、技法や方便として逆効果です。
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<デメリット3>
「この世の終わり」という方便は、人々を支配する手段として利用されます。
人も、世界も、すべて滅ぶ――そう言われたら、多くの人が恐怖をおぼえるからです。
そうやって恐怖を植えつけたあとで、
「私の教えにしたがえば、選ばれた者として生き残れる」
などと言って救われる道があることをしめし、安心感を与えます。
そうやって信者を増やし、信者が教団の言いなりになるように心理誘導するのです。
カルト教団が常套手段のように使う手口です。
「この世の終わり」を説くことで入信や寄付を要求する集団を、絶対に信じてはいけません。
それは、典型的なカルトです。
現代に終末論は必要か?
私の個人的な見解では、終末論は時代おくれの技法だと思っています。
イエス・キリストの時代は、大衆のなかに知識や教養のある人はほとんどいませんでした。
使徒(イエスの12人の直弟子)においても、教養があったのはユダだけだと言われています。
イエスの時代は、宗教の原理や思想について説いても、理解できる人がいませんでした。
もっとわかりやすい技法や方便でなければ、人々を導くことができなかったんですね。
「この世の終わり」という技法が使われたのは、そのような事情があったためだと思われます。
ですが、現代人は教育を受けているので、イエス・キリストの時代よりも賢くなっています。
恐怖をあおることで宗教的になる――というやり方は、現代人には適さないと思います。
瞑想や祈りには、現代人に合っているものがたくさんあります。
「この世の終わり」という技法は逆効果になるリスクが高く、またカルト教団に悪用されやすいものです。
現代では、もう必要のないものだと、私は思います。
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最後に、終末論で説かれているような「人類の滅亡」や「世界の終わり」はやってくるのか、ということについてですが……。
もちろん、いつか終わるでしょう。
人類にも、地球にも、宇宙にも、始まりがあったのですから、とうぜん終わりがあるはずです。
ですが、終末論で説かれているような悲惨な終わり方かどうかはわかりません。
もっと自然なかたちでなくなっていく可能性のほうが高いのではないでしょうか。
ブッダ(お釈迦様)は「時間の終わりはあるのか」と問われたときに、
「意味のない議論だ」
と言って、相手にしなかったと伝えられています。
「この世の終わり」を信じることで恐怖にさいなまれるのであれば、それは意味のないことだと思います。
もう信じるのはやめたほうが良いでしょう。
この世界に、愛しさを感じる――
『いま』という時間を大切にする――
その気持ちをいだくことができるのなら、それで充分なのですから。
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2024年11月13日 文章表現を一部変更。
2024年11月22日 文章表現を一部変更。
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