「どちらが正しいのか」
「どちらが優(すぐ)れているのか」
それをめぐる対立が、世界に満ちあふれています。
宗教や思想における対立は、これがもとになっています。
この対立は、なくすことができます。
世界の人々が、たったひとつの『真実』を理解するだけで、この種の対立はなくすことができます。
正しい理解によって対立が消滅する
ページ内目次
宗教で説いていることの真実
この世界は、
「どちらが正しいのか」
「どちらが優れているのか」
という対立で満ちあふれています。
ですが、そのほとんどが善悪や優劣を判別できないこと(判別すべきではないこと)で争っています。
そのため、「終わりなき戦い」になってしまいます。
宗教における対立や紛争は、その典型です。
どの宗教が正しいとか、どの教義が優れているとか、そんなものはありません。
なぜなら、宗教の聖典や経典に書かれていること――聖人・賢者が伝えていることというのは、
高次の意識とつながるための『技法』
もしくは『方便(ほうべん)』
なのですから。
※方便とは、「教えに導(みちび)くための仮の手段」のこと。
*
20世紀インドの神秘家、OSHO(オショー)という人物が、このように語っています。
**********
彼は私に質問した
「イスラム教やキリスト教によると、生は一度だけです。でもヒンドゥー教や仏教やジャイナ教によると、生は何度もあります――生は連綿として続きます。人は解脱(げだつ=人を超越する神秘体験)しないかぎり、何度も何度も生まれ変わります。さて、あなたはどう思いますか。
――<中略>――
「もしキリスト教が正しかったら、ブッダ(お釈迦さま)は間違っています、クリシュナ(ヒンドゥー教の神)も間違っています、マハヴィーラ(ジャイナ教の開祖)も間違っています。
一方、マハヴィーラやクリシュナやブッダが正しかったら、モハメッドやイエスやモーゼは間違っています。
教えてください。私にはわけがわからない。なにがなんだかわからない。両方とも正しいということはありえません。どうして両方とも正しいということがありうるでしょう。生は何度もあるか、それとも一度だけか、正しいのはどちらか一方です。両方とも正しいということはありえません」
――<中略>――
だが私は言った
「そんなことはない。そうではなく、あなたの考え方が間違っている。両方とも方便だ。どちらも正しくないし、どちらも間違っていない。両方とも方便だ」。
――<中略>――
宗教的な教えを方便としてとれば、なんの矛盾もない。
イエスやクリシュナ、モハメッドやマハヴィーラといった人々は、みな同じことを言おうとしている。彼らは、様々な人間に合わせて様々な道を創り出した。
また、様々なマインドに合わせて様々な技法を創り出し、様々な傾向に合わせて様々な呼びかけ方をした。
だがそれは主義主張ではない。戦ったり、議論するためのものではない。それは方便だ。
出典:『内なる宇宙の発見――呼吸・夢の超越・やすらぎ―― タントラ秘宝の書 第一巻』
OSHO:講話
スワミ・アドヴァイト・パルヴァ:訳
和尚サクシン瞑想センター:編集
市民出版社(1993年)
(第六章 夢見を超える より引用)
※ネット上で読みやすいように改行を増やして体裁(文章の見た目)を変えています。
※丸括弧のなかに補足説明を加えています。
**********
これこそが真実です。
聖人・賢者たちが説いたのは、『技法』や『方便』――
つまり、精神的に成長するための『方法(手段)』なんですね。
『方法』に優劣はありません。
あるのはただ、
「その方法が、その人に合っているかどうか」
それだけです。
そして、目的はすべておなじです。
あなたを精神的に成長させ、究極の意識(神=仏=タオ)に近づけること
そこへ至る『方法』が異なっているだけで、すべての宗教がおなじところを目指しています。
すべての宗教が調和してならび立つ
聖人・賢者たちが説いたのは、『技法』や『方便』――
もしこのことを理解できたら、異なる宗教の人々に対して、
「道(方法)はちがうけれど、おなじものを目指している仲間」
と感じることができるはずです。
たがいの宗教を認め合い、尊重し合うことができるはずです。
そして、この理解が深まれば、
「私はキリスト教徒だけど、仏教の座禅を毎朝やっている」
「私の家は神道だけど、浄化や祈祷のひとつとして、スーフィズム(イスラム神秘主義)の踊る修行法をとりいれている」
「私は仏教徒だが、イエス・キリストの『その家にはいるときには、平安を祈るあいさつをしなさい』という教えに共感しているので、人の家を訪ねたときには、『この家のみなさんに平安がありますように』と祈るようにしている」
といったように、自分自身の「~教徒」という壁をとりはらい、自分に合った『方法』を求めて、積極的にほかの技法をとりいれることでしょう。
それが実現したとき、世界の宗教はたがいに良い影響を与え合います。
すべての宗教が調和してならび立ちます。
そして、宗教対立は消滅します。
世界に平和をもたらす、もっとも冴えたやり方
宗教を例にあげてお話ししましたが、この理解が深まれば、世の中の対立のほとんどが消え去ります。
自分とはちがうものを信じている人や、自分とはちがうことをおこなっている人のことを、尊重できるようになります。
私の場合は、この『方法』が合っているが、
あの人の場合は、あの『方法』が適している
(でも、私たちが最終的に目指しているものはおなじだ)
そのようにして、ちがっているところに価値を見いだし、自他を肯定できるようになります。
さらにこの理解が深まれば、差別や偏見も消滅します。
異なる国、異なる文化があるおかげで、たとえ生まれ育った場所が自分に適していなかったとしても、誰であれ「自分に合った社会」を見つけるチャンスが与えられている――
肌の色、髪の色、瞳の色が異なっているおかげで、人の姿はバラエティに富み、すべての人に唯一無二の個性と魅力が与えられている――
人類はずっと「自分とは異なっている者」をおそれ、にくみ、争ってきました。
でもそれは、たったひとつの理解によって解消できます。
「ちがうからこそ、価値がある」
という真実にもとづいた理解です。
異なっているように見えるものも、本質はみなおなじ――
だからこそ、ちがうところに価値がある。
このことを理解している人が多数派になれば、世界から対立が激減します。
『ちがうから良い』という「わかってしまえば当たり前の真実」を、ひとりでも多くの人が理解すること――
それこそが、世界に平和をもたらすもっとも冴(さ)えたやり方です。
そして、いま、あなたはこのことを理解しました。
あなたの理解が、いま、ひとりぶん、世の中を平和にしました。
あなたはもう、この世界に「平和をつくる者」の一員です。
この記事を最後までお読みくださったことを、感謝いたします。
※「世界平和」に関するほかのお話