19年前に他界した私の父は、哲学者でした。
大学で西洋哲学を教えていた父は、試験を採点する時期になると、頭をなやませることがたびたびありました。
「通常の試験であれば100点満点だけど、しかし、哲学の答案としては0点」
という解答をする学生がいたからです。
哲学は「考える学問」
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哲学における「頭が良い」とは?
100点満点だけど、哲学では0点――
それは、どういう答案かと言うと、
「知識が豊富で、よくおぼえていて、とてもよく書けている。しかし、『自分の考え』がひと言も書かれていない」
というものです。
日本の教育や試験制度は、「記憶力」を重視しています。
ほとんどの科目で「記憶力コンテスト」と化しているのが、日本の試験の実情です。
そのため、
「頭が良い = 記憶力が優れている」
という価値観が、社会に深く根づいています。
ですが、西洋哲学は「考える学問」です。
自分の頭で考え、自分自身で『答え』をだす――
それが哲学的頭脳です。
哲学における「頭の良さ」は、記憶力のことではありません。
「自分自身で思考して、自分の『答え』がだせる」
その能力のことを指しているんですね。
そのため、父がつくる試験問題は、かならずと言っていいほど論文形式でした。
「何かテーマを与え、制限時間内に、そのテーマについて論文を書く」
というテストだったんですね。
これは、西洋哲学が「自分の考えを述べること」を大前提にしているからです。
哲学の講義で「考え方」を教わった学生たちが、
「哲学的に思考し、自分の力で『答え』を導(みちび)きだせているか?」
父はそれを確かめていたんですね。
通常なら100点満点だけど、哲学だと0点の答案
「哲学的に思考し、自分なりの『答え』をだす」
父は、試験の答案にそれを求めていました。
ところが、このことを理解できていない学生が、毎年います。
何かのテーマを与えて書かせると、
「豊富な知識をもとに、その知識をひたすら書きつらねる」
という解答をするんですね。
そして、このような解答をする学生というのは、いわゆる「秀才」です。
卓越した記憶力をもち、(哲学以外の)試験ではつねに優秀な成績をおさめています。
このような答案に直面すると、父は困惑します。
「ほかの教科の試験であれば、この答案は100点満点だろう。
また、レポート(調査・研究の報告書)としても、やはり100点満点だろう。
しかし、哲学の答案としては、はっきり言って0点だ。
このなかに自分自身による『考察』はない。
自分の『考え』がないから、とうぜん自分自身で導きだした『結論(答え)』もない。
これでは哲学とは言えない」
父は、学問に関しては妥協(だきょう)できない人だったので、「この学生に単位を与えるわけにはいかない」というのが父の本心でした。
ですが、答案は白紙ではなく、それどころか答案用紙いっぱいに書かれています。
この学生なりにベストを尽くしているのは明らかです。
しかも、レポートであれば100点満点の内容です。
それを思うと、単位を与えないのはかわいそうだという気持ちになります。
しかし、哲学としては0点の答案……。
父は、心底こまっていました。
あなたの哲学が、あなたの「生き方」を教えてくれる
人生においてより重要なのは、「哲学的な頭の良さ」です。
つまり
「自分の頭で考え、独自の『答え』を導きだす」
という能力です。
記憶力が良いに越したことはありませんが、知識や情報というものは、必要なときにネットや書籍で調べれば、誰でも得ることができます。
ですが、あなたの考察による、あなたの『結論(答え)』は、あなたにしか導きだせません。
それは、書籍やネットで調べても見つからない『答え』です。
そして、その『答え』こそが、あなたの哲学です。
あなたが、あなたらしく生きるうえで、必要な『答え』です。
あなたの「生き方」に関する答えは、あなたの考え(哲学)のなかにあるからです。
※「哲学」に関するほかのお話