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2024年12月22日日曜日

「耳のある者は聞きなさい」とイエス・キリストは言った


 クリスマスまで、あとわずかとなりました。
 今回は、イエス・キリストに関するお話を。


 イエス・キリストは教えを説くときに、このようなことを言っています。

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 聞いて悟(さと)りなさい。
(『新約聖書』 マタイの福音書 15章10節)

 耳のある者は聞きなさい。
(『新約聖書』 マタイの福音書 11章15節)
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 イエス・キリストは群衆にむかって話すときに、なぜこのような言い方をしたのでしょう?

 それは、人々に本当の意味での『理解』をしてほしかったからなんですね。


精神的(霊的)な意味での理解とは?


 聞いて悟りなさい、という言葉は、
「(話を)聞いて、理解しなさい」
 という意味です。

 ですが、精神世界の指導者にとっての『理解』は、意味合いがすこし異なっています。

 そして、その意味合いのちがいは、
「耳のある者は聞きなさい」
 という言葉にあらわれています。


 ページ内目次


耳がある、聞いて悟るとは、どういうことか?


 イエス・キリストのまわりに集まった人たちは、あたりまえのことですが、耳がありました。
 とうぜん、言葉も聞こえていました。

 なのになぜ「耳のある者は聞きなさい」と、イエス・キリストは言ったのでしょう?

 それは、イエスのような聖者にとっては、聞いても『知識』として理解するだけなら、聞いていないのとおなじだからなんですね。


 20世紀インドの神秘家、OSHO(オショー)という人物が、ウパニシャッド(古代インドの聖典)についての講話のなかで、このようなことを言っています。

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 ウパニシャッドは、人の在り方を変えないものをヴィデャ(明知=本当の知識)とは呼ばない。
 私が何かを知っても、知る前の私と同じままであるなら、ウパニシャッドによれば、それはヴィデャではない。
 知れば、たちまち人が変わってしまうような知識がヴィデャと呼ばれる。

出典:『イーシャ・ウパニシャッド 存在の鼓動』
講話:和尚(OSHO)
訳:スワミ・ボーディ・マニッシュ
市民出版社(1998年)
(第11章 私もまた聞いている より引用)
ネット上で読みやすいように改行を増やして体裁(文章の見た目)を変えています。
丸括弧のなかに補足説明を加えています。
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 精神世界の指導者にとって「頭で理解している知識」は、知っていることにはなりません。
 精神世界の指導者にとっての「知っている」は、

知ったことによって変わること
(以前よりも精神的に成長すること)

 それを意味しています。

 つまり、その知識が『行動』になってあらわれるということです。

 たとえば――

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 AさんとBさんは、たばこの吸いすぎを医者に注意されました。
 ふたりは、カウンセリングを受けることになりました。

 カウンセラーは、
「たばこというものがいかに有害で、吸いつづけることがいかにおろかであるか」
 それを科学的な根拠をもとに、AさんとBさんに説明しました。

 頭脳明晰なAさんは、カウンセラーの言ったことをよく記憶し、「たばこが良くない理由」を正確におぼえました。
 しかし、あいかわらず毎日たくさんのたばこを吸いつづけています。

 いっぽうBさんは、カウンセラーの話を聞いて、
「みずから体に毒をためるなんて、私はなんておろかなことをしてきたんだ……」
 と痛感しました。

 Bさんは、次の日からたばこの本数をすこしずつ減らしはじめます。
 そして半年後には、たばこをやめることに成功したのでした。
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 この例で言うと、Aさんはカウンセラーの言ったことをまったく理解していません。
 カウンセラーの言葉をしっかり記憶してはいても、それが『行動』になってあらわれないのであれば、知らないのとおなじだからです。

 いっぽうBさんは、カウンセラーの言葉をすべておぼえているわけではありませんが、カウンセラーの「たばこを吸うことはおろかしい」というメッセージを、実感として受けとめました。
 そして、次の日からさっそくたばこの本数を減らしはじめます。

 Bさんのように、知ったことによって『行動』が変わる――それが精神的な意味での「知っている」ということになります。


聞いて悟れる人になるために


 頭脳明晰で、マインド(理性)が発達している人ほど、頭で理解しただけで「もう知っている」と思い込んでしまいがちです。
 ですが、イエス・キリストに言わせれば、そのような人は「耳のない人」です。
 聞いても、変わらない(行動になってあらわれない)のであれば、聞いていないのとおなじ――耳がないのとおなじだからです。

 イエス・キリストが人々に教えを説いたのは、『知識』をたくわえさせるためではありません。
 変容してほしかったからです。

エゴを落として精神的に成長し、高次の意識と同調する

 私たちをそのように導(みちび)きたかったのです。
 だからこそ、にくまれて十字架にかけられる運命が待っていると知りながらも、危険をおかして教えを説いたんですね――耳のある人たちのために。


 私たちは、「聞いて悟れる人」になりましょう。
「耳のある人」になりましょう。

 一度聞いただけでは、すぐに変わることはできず、なかなか『行動』にはあらわれないかもしれません。

 その場合は、

  • 教わったことを何度も思い返して、潜在意識に刻みつける
  • 教わったことを実践(じっせん)して、意識的に行動パターンを変える(体験によっておぼえる)

 ということを心がけましょう。

 それを心がけるのであれば、聞いて悟ったのとおなじことです。
「くり返し」や「体験」は、潜在意識に対する暗示力が強いので、いずれ、かならず、教わったとおりに変容するからです。


イエス・キリストの想いを真摯に受けとめよう


 ためになることを教わったときは、頭だけの理解で満足せずに、それが『行動』になってあらわれるように、全身全霊で理解できるようになってほしい――

 それこそが、
「聞いて悟りなさい」
「耳のある者は聞きなさい」
 という言葉に込められた、イエス・キリストの私たちに対する想(おも)いです。

 キリストの想いを、私たちも真摯(しんし)に受けとめましょう。
 そして、「聞いて悟れる人」の一員になりましょう。


当記事における新約聖書の引用は『新改訳 新約聖書 詩編付』(いのちのことば社 1970年)よりおこなっています。

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