今回は、「究極の真理(しんり)を知る方法」について、お話しします。
私の言う「究極の真理」とは、人類が『神』や『仏』や『タオ(道)』などと呼んできたもののことです。
※『仏』という言葉の本当の意味は「悟りをひらいた人」なのですが、日本では一神教の『神』と同義語として扱われることが多いため、当サイトでは『仏』も究極の真理をあらわす言葉として使っています。
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と言っておきながら――
究極の真理そのものについては、語ることができません。
究極の真理は、この世界(物質宇宙)のどこにも見つけられないからです。
存在しないものは研究できません。
つまり、究極の真理(神=仏=タオ)については、その存在を科学的に立証することは不可能だということです。
究極の真理は、人知を超えています。
人間の知能では、どうやっても知ることはできないんですね。
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究極の真理(神=仏=タオ)を知る方法が、ひとつだけあります。
それは、体験すること――すなわち、「究極の真理とつながること(同調すること)」です。
究極の真理を知る方法
ページ内目次
真理に対する西洋と東洋のちがい
東洋では(特にインドでは)いにしえの時代からこのことに気づいていました。
西洋では、古代ギリシャの時代から名だたる哲学者たちが「究極の真理」にいどんできました。
ですが、現代にいたるまで、誰も真理を解き明かした人はいません。
それどころか、多くの哲学者が発狂するという結末をむかえました。
哲学者の卓越した頭脳をもってしても、究極の真理を解き明かすことはできないんですね。
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東洋の聖人・賢者たちは、『神』や『真理』について語ることをしませんでした。
究極の真理は人知を超えているため、人間の頭脳では解明できないことを知っていたからです。
その代わりに東洋では、
「究極の真理と、全面的につながる方法(一体化する方法)」
を数多く考案しました。
それが、瞑想(めいそう)です。
瞑想を極めると、一気に、全面的に、究極の真理とつながります。
「解脱(げだつ)」や「涅槃(ねはん)」と呼ばれる状態が起こるほど、一気に、完全に同調します。
※「解脱」や「涅槃」とは、意識が心身を超越して、究極の真理(神=仏=タオ)と一体化する神秘体験のことです。
東洋の聖人・賢者たちは、究極の真理と全面的につながる方法をあみだし、それを人々に伝えました。
それは、究極の真理は『体験』以外に知るすべがないからなんですね。
20世紀インドの神秘家、OSHO(オショー)という人物が、ブッダ(お釈迦様)のエピソードとして、このようなことを語っています。
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ブッダは四十年間、こう言い続けてきたそうだ、
「真理について、神について、涅槃(ニルヴァーナ)について、解脱について、私に尋ねてはいけない。そのような事柄については、なにも尋ねてはいけない。
尋ねるなら、どうやってそこに到達するか尋ねなさい。そうしたらその途を示してあげよう。
だが、その体験を与えることはできない。たとえ言葉でもだ」。
その体験は個人的なものだ。
方法は非個人的なものだ。
方法は科学的、非個人的であり、体験はつねに個人的、そして詩的だ。
出典:『タントラ秘宝の書 第二巻 源泉への道』
OSHO:著
スワミ・アドヴァイト・パルヴァ(田中ぱるば):訳
和尚サクシン瞑想センター:編集
市民出版社(1994年)
(第6章の 第一の質問 より引用)
※ネット上で読みやすいように改行を増やして体裁(文章の見た目)を変えています。
※ルビがふってある部分を、半角丸括弧で表現しています。
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体験は個人的なものであるため、人に与えることはできません。
自分がしたのとおなじ体験をさせるには、それを体験できる『方法』を教えるしかありません。
ブッダをはじめ、東洋の聖人・賢者たちが真理そのものについては語らずに、人々に瞑想をやらせたのには、そのような理由があるんですね。
「祈り」による究極の真理とのつながり方
瞑想のように『心』をすて去る(無心になる)方法では、究極の真理と全面的に、完全につながることができます。
ですが、「解脱」や「涅槃」と呼ばれる境地に至るまで、つながることはできません。
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いっぽう、祈りや自己肯定暗示のように『心』を使った方法では、究極の真理と「少しずつ」つながっていくことができます。
- 個人意識(エゴ)をよわめていくことで、『神=仏=タオ』と少しずつ同調していく
- 『神=仏=タオ』を信頼し、すべてをゆだねる
このふたつが、『心』を使って究極の真理とつながることができる方法です。
後者の「究極の真理にすべてをゆだねる」という方法が、『心』を使う方法では、もっとも深くつながることができます。
祈りを基盤にした宗教や、精神世界の指導者たちが、最終的な技法として古来より説いてきた方法です。
いわゆる「明け渡し」と呼ばれるものです。
といっても、『心』を使った方法では、急激につながることはできません。
少しずつ、時間をかけてつながっていきます。
また、『心』を使った方法では、全面的につながる(一体化する)ことはできないとされています。
祈りには、「祈る者」と「神」――「私」と「神」の関係性があり、そこには分離があります。
そのため、解脱や涅槃のような「究極の真理との完全な一体化」は起こらないと言われています。
とはいえ、ふつうの人は、究極の真理と「全面的」というレベルまでつながる必要はありませんよね。
「解脱」や「涅槃」に到達してしまったら、人間を超越してしまいますので、もう『人』としては生きられなくなってしまいますからね。
祈りによって神の存在を知る
日々、正しく祈ることができている人は、究極の真理(神=仏=タオ)とのつながりが深まっていきます。
実際、そのような人々は、「神はいるのか?」という問いに対して、まよわずに「いる」と答えます。
それは、宗教の教義としてそう信じているとか、人からそう教わったからなどではなく、自分の体験による確信です。
というのも、究極の真理とのつながりがある人は、
「全知全能の存在が、助けてくれているとしか思えない」
という体験を、たびたびするからです。
- 心の内側から強い衝動がやってきて、「なぜ急にこんなことをしたくなったんだろう?」とふしぎに思いながらも衝動にしたがって行動したら、すべてが良い結果になった
- 自分にとって都合(つごう)の良いことが次々と起こり、自分が願っていた以上のことが、自動的に実現した
そういったことが、自分の身に起こるようになるからです。
そして、そういった出来事(できごと)というのは、
「自分のことだけではなく、ほかの人たちのことも知り尽くしている存在でなければ、そのように導(みちび)くことはできない」
「未来に起こることを知っている存在でなければ、このようには導けない」
そのようなことばかりです。
ですので、このような体験をする人たちは、「全知全能の存在がいるのはまちがいない」と、確信をもって言うことができます。
そして、これもまた、解脱や涅槃と同様に、「体験によって究極の真理を知る」ということになります。
自己肯定暗示は祈りと同様のもの
プラス思考やポジティブシンキングなどをふくむ「自己肯定暗示」もまた、「祈り」と同様のものになります。
というより、祈りのほうが自己肯定暗示の一種であると、私は思っています。
「暗示」という言葉や概念(がいねん)がない時代は、とうぜんのことながら、自己暗示について教えることができません。
そのため『神』という方便を使い、「祈り」という技法を伝えたのだと、私は思っています。
※方便とは、「教えに導くための仮の手段」のこと。
否定しないこと――肯定することが、『心』を使って究極の真理とつながる絶対条件です。
究極の真理は「すべて」であり「完全」です。
否定するものなど、究極意識にはありません――すべてが肯定されています。
そのため、心の「肯定性」を養うことによって究極の真理と同調し、つながりを深めていくことができます。
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また、「自他の分離がない心」も、究極の真理とつながるには不可欠です。
つまり、「自分」と「他人」をわけへだてる考え方をしている人は究極の真理とはつながらない、ということです。
究極の真理は全一(ぜんいつ)――「すべて」であり「ひとつ」です。
分離感があると究極意識とは同調しないため、切りはなされます。
つまり、自分の都合(つごう)ばかり考えている人は『神=仏=タオ』の助けは得られない、ということです。
否定的な出来事を肯定できるようになるのが、真の肯定性
否定しないこと――肯定することが、高次の意識とつながる絶対条件です。
特に、「良くないこと」が起こったときに否定的にならない――その「良くないこと」も肯定できるようになると、高次の意識とのつながりが深まっていきます。
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たとえ、良くないことが起こったとしても、それはやがて、ポジティブな意味をもつようになる。
良くないことも、やがて、良いことになる。
※潜在意識とのつながりを深める肯定暗示文 より抜粋
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このような考え方が潜在意識に浸透すると、『神=仏=タオ』と呼ばれている高次の意識――究極意識の存在が、実感できるようになります。
目には見えない強大な『力』が、あなたを助けてくれるようになるからです。
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