2024年10月12日土曜日

「強さ」とは何か? 補償によって得た答え


 中学2年のときに地元の空手道場に入門したのをきっかけに、格闘技に傾倒(けいとう)しました。

空手をやっていた中学生の頃

 高校生になったのと同時に空手はやめましたが、格闘技に対する情熱は増すいっぽうでした。
 そして、17歳のときにボクシングジムに入門。
 それからはボクシングに夢中になりました。



 若い頃、私が格闘技に打ち込んだ理由は――

 もちろん、強くなりたかったからです。

 では、なぜ強くなりたかったのか?

 それは私が、よわかったからです。


強くなりたい――その思いによって得たもの


 ページ内目次


よわい自分がきらい――だから強くなりたかった


 子供の頃の私は、風邪をひきやすい体質で、体はあまり丈夫(じょうぶ)ではありませんでした。
 体育の授業も休んだり見学したりすることが多く、運動は苦手(にがて)でした。

 漫画が好きで、将来の夢は漫画家になることでした。
 小学生の頃は、そんな感じの子供でした。


 私が中学・高校時代をすごした1980年代は、「ヤンキー(不良少年)」が流行していた時期でした。
 外をでれば、すぐにガラのわるい連中に遭遇する――そんな時代だったんですね。

 体がよわく、運動が苦手で、漫画を読んだり描いたりばかりしている――
 そんな少年に、ケンカなんてできるわけがありません。

 しかし、外にでればすぐに不良に遭遇する時代です。
 こっちは関わり合いたくないと思っていても、むこうからからんでくるので、さけようがありません。

 ですが、自分がからまれた場合は、機転を利(き)かせることで、うまく切り抜けることができました。
 運動は苦手でも、頭はけっこう良かったですから(笑

 私がいやだったのは――屈辱を感じるほどみじめな思いをしたのは、友だちがからまれたりいやがらせを受けたりしているのに、助けてあげられないことです。

 私は、臆病でした。
 平然と悪事をおこない、暴力をふるう不良たちが、こわくてしかたありませんでした。
 友だちが不良にからまれていても、自分も巻き込まれるのがこわくて、「やめろよ」のひとことが言えませんでした。

 そんな自分が、みじめで、情けなくて、大きらいでした。

 子供の頃は、漫画や、アニメや、特撮のヒーローに夢中になっていました。
 正義のために悪と戦うヒーローに共感し、心を躍(おど)らせていました。
 ですが、現実の自分は?
 目の前で堂々と悪事がおこなわれているのに、こわくて何もできません。
 見て見ぬふりをしたり、こそこそ逃げまわったり、ヒーローとは正反対のことをやっています。

 私は、自分のことを「男としてはずかしいやつだ」と思いました。
 そして、「はずかしい自分」を変えたいと願いました

 それが、格闘技をはじめた理由でした。


補償 努力で苦手を克服する


 心理学に「補償(ほしょう)」という言葉があります。

 自分の『心』を守るために無意識がとる防衛作用のことを「自己防衛機制」というのですが、「補償」はその自己防衛機制のひとつです。

自己防衛機制は14種類あると言われています。
(抑圧、逃避、退行、置き換え、昇華、反動形成、補償、男性的抗議、取り入れ、同一化、投射、合理化、打ち消し、隔離)


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〝かかと落とし〟の荒技で人気を博した空手家、故アンディ・フグ氏は、幼いころはイジメられっ子だったという。
 ほかのスポーツにくらべて、格闘技の一流選手には、ことさらに元イジメられっ子が多い。
 このように、人よりも劣った部分を補う強い欲求に衝き動かされることを「補償」という。

出典:『精神分析が面白いほどわかる本』
   心の謎を探る会:編  KAWADE夢文庫(2002年)
ネット上で読みやすいように、改行を2回加えています。
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 お気づきのとおり、私が10代のときにとった、
「よわい自分を克服したくて、格闘技を習う」
 という行動は、典型的な「補償」です。

 もちろん、当時の私に心理学の知識などなく、それが「補償」だとは知らずにやっていました。

 格闘技にかぎったことではありません。
 どんな分野であれ、プロフェッショナル(専門家)と呼ばれる人の多くが、「補償」によってその地位をきずいています

もともと、それは苦手だった――
苦手なことを克服するために、人一倍、努力した――
その結果、その分野で抜きんでた人物になった――

 専門家や成功者には、そういった人がとても多いです。

人よりも劣っていることを努力によって補う――
その結果、人よりも優れた能力が身につく――

 それが、「補償」です。


 私の場合――
 高校生のときにはじめたボクシングは、紆余曲折(うよ・きょくせつ)があったものの、大学4年の22歳のときにプロテストに合格しました。
 その後、プロのリングにあがり、勝利をおさめています。


 もとは、不良に対抗できる強さがほしくてはじめた格闘技でした。
 ですが、最終的にプロボクサーになり、試合もやりました。
「不良に対抗できる強さ」などというものはとおり越して、プロの格闘家になってしまいました(笑

 典型的な「補償」ですね。


「強さ」とは何か? その答えを得た


「強さ」を求めてプロの格闘家にまでなった――

 そんな経験をしたおかげで、私は「強さ」とは何か、それを知ることができました。
「よわい自分」と「強くなった自分」の両方を経験したからです。

「強さとは何か?」の答えを得るには、「よわい」と「強い」の両方を知らなくてはなりません。
 私は「補償」によってその両方を体験したので、「強さ」というものがわかるようになりました。

 とはいえ、それを人に教えることはできません。
 それは、私が体験によって「実感したこと」なので、言葉では正確に伝えることができないからです。
 私とおなじ答えを得るには、私とおなじように「よわい」と「強い」の両方を体験しなければならないと思います。


 ですが、あえてそれを言葉で説明すると――

 まやかしなんですよ、「よわい」とか「強い」とかは

 プロボクサーになった私は「強い人」でしょうか?

 たしかに一般の人から見れば、私は「強い人」です。
 素人(ボクシング経験がない人)の攻撃は、ボクサーには当たりません。また、ボクサーのパンチは素人ではよけられません。
 そういう意味では、私は「強い人」です。

 ですが、ボクシングの世界チャンピオンが相手なら、どうでしょう。
 私のボクシングのスキルでは、世界チャンピオンには歯が立ちません。
 世界チャンピオンの前では、私はまったくもって「よわい人」です。

 私自身の「強さ」は変わらないはずなのに、相手によって「強い人」になったり「よわい人」になったり――
 要するに、単なる比較でしかないんですよ。
 私が「強い」か「よわい」かは、相手しだい――そんなあやふやなものなんですね。


 ふだんはものすごく強い人も、風邪をひいていたり、疲労がたまっていたりして体調がわるいときは、別人のようによわくなります。
 人は、日によって強くなったりよわくなったりします。
 まったくもって一貫性がありません。
 要するに、「強い」とか「よわい」とかはただのレッテル――人が思い込みで貼りつけた評価にすぎないということです。


 また、闘いによって勝ったほうを「強い」と言い、まけたほうを「よわい」と言っていますが――
 勝ったのは、相手が自分よりもよわかったからです。
 勝者は、自分よりもよわい相手と闘っただけ――そこに精神的な強さは必要ありません。
 敗者は、自分よりも強い相手と闘っています――それはとても勇気のいることであり、精神的な強さをあらわしています。
 勝者と敗者、本当に強かったのはどちらなのでしょう?


「強い」とか、「よわい」とか、そんなものはまやかしです。
 人が勝手に言っているだけで、実際にはそんなものはありません。
 比較の論理が生みだした幻想にすぎません。

 ですので、「強さ」を求めつづけているかぎり、本当の「強さ」は手にはいらないと思います。
「強い-よわい」や「勝った-まけた」は、比較の論理が生みだした幻想だからです。
 実体のないものを追い求めても、手にいれることはできません。
 比較をくり返して、両極のあいだを揺れ動くだけです。

 本物の「強さ」は、比較の論理を超越したところにあります。

「あの人は私よりも優れている」とか――
「あいつは私よりも劣っている」とか――
 そんなふうに他人と比較をしないことです。

 そして、
自分のやるべきことに集中する――
自分にできることを精一杯やる――
 それができる人こそ「強い人」です。

自分自身に専念する――
 それは、他人との比較にエネルギーを浪費せずに、自分の能力をフルにひきだしている生き方だからです。

人とくらべることなく、自分自身に専念し、つねに「最高の自分」でいること――

 それが「本物の強さ」だと、私は実感しています。


苦手だからこそがんばれる


 強くなるために努力ができるのは、よわい人だけです。
 もとから強かった人は、わざわざ努力してまで強くなろうとはしません。

 苦手なことほど、克服するためにがんばることができます。
 逆説的ではあるのですが、「苦手なこと」は、いずれ「得意なこと」になる可能性が高いです。

 苦手を克服したい――
 強くなりたい――

 そう思っている人は、今回のお話をぜひ参考になさってみてください。





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