2024年4月15日月曜日

死にたいくらいに苦悩しているあなたへ

 
 私は29歳のときにうつになり、それから5年間、ひきこもりの生活をしていたことがあります。
 働き盛りの年齢でありながら、無気力で何もすることができず、社会から切りはなされていく日々――

 あのころの私は、人生を終わらせることばかり考えていました。
 死ぬのなら、誰にも迷惑をかけない死に方をしたい――
 そう願い、「どうすれば誰にも迷惑をかけずに死ねるのか」と、毎日、悶々(もんもん)と自分に問いつづけました。

 あのとき私が自殺を実行しなかったのは、「誰にも迷惑をかけずに死ぬ方法」が思いつかなかったから――ただそれだけです。
 もしあのとき思いついていたら、私はいま、この世に存在していません。


 お読みのとおり、私はひどく心のよわい人間です。

 ですので、いま現在、死にたいくらいに悩み、苦しみ、絶望している人に対して、
「死んではいけない」とか、
「生きろ」とか、
 そういう言葉を発する資格は、私にはありません。
 また、言うつもりもありません。

 ですが、私はかつて人生を終わらせたいと願うほど苦悩し、そこから立ち直る経験をしています。
 そんな私だからこそ、確信をもって言えることがあります。

「いま人生を終わらせたら、絶対にもったいない!」


不幸、そして幸福……


「幸せ」がわからない金持ちの話


 20世紀のインドの神秘家、OSHO(オショー)という人物が、こんなたとえ話をしています。

**********
 とても裕福な男、国じゅうでもっとも裕福な男が、あるとき、自分の生き方に不満を抱き始めた。
 生が無意味に思われるようになった。
 金で買えるものなら何でも持っていたが、金で買えるようなものはすべて無意味に思われた。

 ――<中略>――

 そこで彼は、自分のあらゆる貴重品、装飾品、金、宝石、その他すべてを大きな袋に詰めて、旅に出かけた――
 どこかの誰かに、何か価値あるものを、幸福の一瞥(いちべつ)を、与えてもらおうと……。

 ――<中略>――

 そうして彼は、とある村に着き、ムラ・ナスルディンの居場所を尋ねた。
 ムラはその村に住む行者(ぎょうじゃ)だった。
 村人は言った、
「ムラ・ナスルディンなら村を出たところに座っているよ。木の下で瞑想している。そこへ行ってごらん。もしあの人が幸福の一瞥を与えてくれなかったら、もうあきらめることだ。たとえ世界の果てまで行こうとも、けっして得られはしない。もしあの人が一瞥を与えてくれなかったら、もうまったく無理なことだ」

 男はたいへん興奮した。
 そしてムラ・ナスルディンのところへ行った。
 ムラは木の下に座っていた。
 陽は沈もうとしていた。

 男は言った、
「私はこの目的のためにやって来ました。私の生涯得たものはすべて、この袋の中に入っています。もし幸福の一瞥を与えてくれたら、これを全部さしあげます」

 ムラ・ナスルディンは耳を傾けた。
 夕闇が迫り、あたりは暗くなってきた。

 一言も答えることなく、ムラ・ナスルディンはこの金持ちから袋をひったくるなり、駆け出した。
 もちろん、金持ちは、泣き、わめき、金切り声をあげながら彼の後を追いかけた。

 ――<中略>――

 男は気も狂わんばかりだった。
 そしてこう叫んでいた、
「一生涯の財産を盗まれてしまった。もう貧乏人だ! もう乞食だ!」。
 彼は泣いていた。
 泣きじゃくっていた。

 こうするうちにナスルディンは元の木のところへやって来た。
 そして袋を木の下に置くと、自分は木の後に隠れた。

 男がやって来た。
 そして袋の上に倒れ伏し、あまりの幸福に泣き始めた。

 ナスルディンは木の後からそれを見て言った、
「どう、幸せかい。少しくらいは一瞥を得たかい」

 男は言った、
「私はこの世でいちばん幸せだ」


出典:『タントラ秘宝の書 第五巻 愛の円環 ヴィギャン・バイラヴ・タントラ』  和尚(OSHO):講話  スワミ・アドヴァイト・パルヴァ(田中ぱるば):訳  和尚サクシン瞑想センター:編集  市民出版社(1995年)
(第六章 本来の存在へ  最初の質問 より引用)
ネット上で読みやすいように改行を増やす、空白行をいれるなどを行い、体裁(文章の見た目)を整えてあります。
「一瞥」、「生涯」、「行者」の最初の表記に半角丸括弧で読み仮名を加筆しています。
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あなたはいま、「幸せ行きのチケット」を手にしている


 生まれながらの金持ちは、「お金がある喜び」や「裕福である幸せ」を実感することができません。
 お金があること、裕福であることが「当たり前」だと潜在的に思っているからです。

「お金がある喜び」は、「お金がない苦悩」を経験した人でなければ得られません。
「裕福である幸せ」は、「貧乏という不幸せ」を経験した人でなければ得られません。

 OSHOは、こう言っています。

**********
 頂上を得るには谷が必要だ。幸福を感じるには不幸が必要だ。

同書、同章より引用。
**********


 苦しいこと、つらいこと、悲しいこと――
 それを経験しないことには、喜びを得ることはできません。
 不幸を経験しないことには、本当の意味での幸福を得ることはできないんですね。

 そして――

 あなたはいま、死にたいくらいに苦悩しています。
 あなたの谷は、とてつもなく深い。
 それはつまり、
「このあとにやってくる頂上は、とてつもなく高い」
 ということを意味しています。

 つらく苦しい思いをしているあなたには、とても大きな幸福――至福(しふく)と呼べるほどの大きな幸せが、このあとの人生の展開として用意されています。

 もっとも深い谷――落ちるところまで落ちたあなただからこそ、もっとも高い頂上である「真の幸福」にいたることができます。
 つまり、あなたは「幸せになる準備」が、すでに整っているということです。

 いま、あなたが経験している不幸は、あなたが幸せになるための「準備」であり、「前段階」です。
 物語においても、クライマックスをめいっぱい盛りあげるために、その前振りとして、主人公をとことんまで窮地に追い詰めるという手法をとっています。

 だから私は、確信をもってこう言います、
「いま人生を終わらせたら、絶対にもったいない!」
 と。


 このあと、最高潮の盛りあがり――クライマックスが待っているのに、本当にここで終わりでいいのですか?

 このあと、幸せになれることがわかっているのに、それを経験しないままでいいのですか?

 あなたの人生にはハッピーエンドが用意されているのに、幸せな結末を見なくていいのですか?


 あなたはいま、「幸せ行きのチケット」を手にしている――
 それを使わないまま終わりにするのは、あまりにももったいない――
 そう思いませんか?


 私自身、死にたいくらいの苦悩を経験したので、その後は「幸せ」とともに生きられるようになりました。

働けること、仕事ができること――
人とコミュニケーションがとれること――
泣いたり、笑ったり――
怒ったり、優(やさ)しい気持ちになったり――
猫の頭をなでたときに、愛(いと)しさが胸にこみあげてきたり――

 ほかの人にとっては「そんなの当たり前」と言えるようなことが、たまらなくうれしくて、幸せな気持ちになります。
 人としての営(いとな)みがふつうにできる――ただそれだけで、幸福感で満たされます。

 おそらく私は、「幸せな人」なんだと思います。


あなたの苦悩の意味


 人類が『神』や『天』と呼んできた「高次の意識」は、あなたを幸せにしたいのだと思います。
 だからこそ、その前段階として、あなたに苦悩を与えたのだと思います。

 幸せがやってきたときに、あなたがけっして、その幸せをとりにがすことがないように――



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